「走るメロス」
歳進院殿誠

 もう駄目だ、もう駄目だ、と呟きながら二十六メートル、砂利道を抜けてアスファルト道路へと舞い戻った。
 なんだってこんなふざけた真似をしなくちゃならないんだろうか? とメロスは口にたまった唾を吐き捨てながら、心の中で反芻する。俺がメロスって名前だからって、なんだってこんな長い道を走り続けなけりゃならないんだ?
 成程、メロスの目の前には長く曲がりくねったアスファルト道路が延々と続いている。車道は車で溢れ、走っている人など何処にもいない。自転車か、歩きか、だ。走っているのはメロスぐらい。だから余計に馬鹿らしく思えた。
 かといって歩くことは出来ない。別に歩いたからといって、親友が死ぬわけでもないし、そもそもメロスに親友と呼べるような存在はいない。では何故走っているのかといえば、彼がメロスという名前を与えられた哀れな少年だからだろう。
 ハッハッハッ、と荒く息を吐きながら車の横を駆け抜ける。
「おいメロス、歩くんじゃないぜ? 走れ、走れよメロス」
 赤いスポーツカーに乗った男たちが一斉にメロスを見て笑い出した。馬鹿らしい、とは思いながらも反論する体力すら残されていない。既に限界だ。足はブルブル震えているし、呼吸はさっきから酸素を取り込んでいない。
 一体何処へ向かって走っているんだろうな、そんな疑問が頭を掠め、立ち止まってしまおうかとも思ったが、メロスという名前がそれを許さない。大きなビルから出てきたOL二人組みが、腰ミノ一丁で走っているメロスを見て黄色い悲鳴を上げた。
 黙れ不細工どもめ、とメロスは口の中で呟く。俺だって好き好んでこんな格好をしているわけじゃないんだ。OL二人組みを横目で睨みつけながら、メロスは十字路に差し掛かった。
 信号は赤。車道を物凄い勢いで駆け抜けていく車の群れが見えた。
「止まるんじゃない、止まっちゃいかんよ、止まればお前の親友が国王に殺されてしまうよ」
 信号待ちをしていた老人がメロスを見止めてそんな言葉を吐きかける。
 だが、メロスはスピードを緩めた。当たり前だ。このまま直進すれば車にはねられて走ることは愚か、下手したら天国行きだ。しかも、自殺扱いで保険金も出ないかもしれない。
 メロスは徐々にスピードを落とし、今では歩くよりも遅いスピードで走っていた。一向に変わらない信号に苛立ちつつも、歩かずに走り続ける。
「いかんよ、いかんよ、それじゃいかんよ、お前が此処で足止めを食らえば、みんなが迷惑するんだよ、国王も改心してくれなくなるんだよ」
 国王なんか知るか! とメロスは心の中で叫んだ。この現代に国王なんかいないんだよ、そりゃいる国もあるけど、この国には国王なんかいないだろ。メロスは奥歯を噛み締め、溜まった唾をアスファルトの上に吐き捨てた。
 信号は変わらない。もうあと一メートルほどしか猶予はない。黄色にすら点滅していない。
 まずい、まずいぞ! とは思うのだが、もう歩いちまえよ、という心の声があることも事実だ。どちらがメロスの本心かといえば、恐らくは両方だろう。
 メロスは仕方がない、大きく回って後ろを振り返った。此処でグルグル回って時間を稼ぐんだ。
「卑怯者め! お前がなにをしようとしているのか、みんなには全部わかっているんだよ、何故走らない? メロス、走らないメロスなど存在する価値もないことに何故気づかない?」
 ふざけるなよジジィ、メロスが走らなけりゃいけない理由なんか何処にもないだろう、とは思うのだが、口には出せないし、立ち止まることも出来ない。
 メロスはグルグルと回りながら、次第に世界が収束していくのを感じていた。
 あぁ、そういえば思い出したぞ、同じところをグルグル回っていたらバターになるんだよなぁ。
 一向にバターになる気配はないが、目の前がウニョウニョと歪み始めるのを感じる。これはきっとアレだ、なんだ? そうそう、アレだよ、疲れとこの暑さの所為なんだよ。
 さっさと沈めよクソ太陽、とメロスは呟いた。だが、太陽は容赦なくメロスの肌を焼き尽くす。信号も変わらない。同じところをグルグルと回っているだけだ。
「メロス…、もういい、もういいのよ…」
 声がした方を振り返ってみた。其処に、母親が立っている。涙を流し、両手を胸の前にまるで祈るように組んでいる。
「母さん…」
 メロスは初めて声を出した。久しぶりに喉から這い出てきた声はメロスのものとは思えぬ疲れ果てた声だった。
「ごめんなさい…、私が、私がメロスなんて名前をつけなければ、こんな…こんなことにはならなかったのに!」
 今更そんなことを言われても、とメロスは思った。母親が太宰治ファンだということは知っていたし、メロス以外に自分の名前がないこともわかっている。メロス、と名づけられなければ今の自分はない、とメロスは許しにも似た感情で母親の顔を見た。
 疲れ果て、年老いた母親の顔。記憶の顔とダブらせてみても、皺の数が段違いに増えている。
 しかし、これはおかしかないか? とメロスは走りながら思った。グルグルと回りながら考え続けた。
 一体俺は、いつからこうやって走り続けているというんだろうか? 思い出そうにも思い出せない。記憶が壊れている。遠ざかっていった風景や、駆け抜けた海原は思い出せるのに、自分の心の奥底を覗き込むことが出来ずにいた。
 思えば、此処は一体何処なのだろう? 顔をグルグルと回して目に映る風景を記憶の中に捜そうとした。思い出の中、何処にもこの風景はなかった。
 不意に、自分の掌が視界の隙間をちらりと掠める。黒く汚れた、老いぼれた掌。これは一体なんだ? とメロスは思った。
「いけませんメロス! 立ち止まってはいけません!」
 母親の声が、記憶の奥底からせりあがってどす黒い感情と共に全神経を支配した。
 風景がボロボロと崩れ去っていく。精神がガラガラと犯されていく。肉体がハラハラと風に舞う木の葉のように。
 繋がるのは記憶の根底。グラウンド。
「お前メロスなんだろ? なら走れよ、走れメロス」
 走る、走る、走る。何処までも、いつまでも走り続ける。走らないメロスに存在意義はない。走れないメロスは、メロスとは呼べない。
 走る、走る、走る。足が裂け、骨が傷口からはみ出ても。
 走る、走る、走る。喉から血が溢れ、死が眼前で踊っても。
 走る、走る、走る。真っ暗な闇の中、メロスという名前だけを誇りに。
 そして、夢の死を。





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