彼と雨の関わり
浅岡進

 
 昼までは何とかもっていた空が崩れ始め、空から大粒の雨が降り始めてきた。小学校の校庭でサッカーに夢中になっていた少年たちは慌てて校舎の下へと避難した。すでに夏の終わりが訪れていたこの季節、風は冷たいものとなっていた。少年たちは自分たちの避難場所へと流れ込んでくる風に身を震わせながらも、先程までのサッカーの試合について語り合っていた。こっちのチームの方が勝っていた、いや、うちの方が押していたさ、と少年たちは自分のチームの有利を主張してやまなかった。その間も雨は降り続けており、校庭のあちこちに水溜りができはじめていた。雨は段々と激しくなっていき、グラウンドの有様はさらにひどいものになっていった。やがて少年の一人が、そろそろ帰ろうか、と言った。他の少年たちは同意した。別れの挨拶をすると、少年たちは激しく降りつける雨の中を家に向かって走り始めた。しかし、一人だけ残ったままの少年がいた。少年は黙って振り続ける雨を見続けていた。その表情には、憧れが色濃く表れていた。少年は校舎の下から進み出ると、雨の中へと身を置いた。降りつける雨を見上げながら、少年は笑みを浮かべた。そこには、これ以上はないといった喜びが込められていた。少年は天へと向かって笑みを浮かべたまま、じっと雨粒に打たれ続けていた。

 

 少年の生まれた町では雨に触れることは禁止事項とされていた。そのため、町の人々は誰もが傘を持っており、雨が降ってきても濡れないですむようにしていた。町には新しく生まれた子供に傘を与えるという習慣があった。これは町でもっとも神聖とされる儀式の一つで、子供が産まれる一ヶ月程前から傘職人が新しい子供専用の傘を作り始め、産まれると同時にその傘は子供の両親に渡される。傘職人の手による傘は頑強な木と丈夫な布を使って作られており、与えられた子供は一生物としてその傘を持ち歩いていく。子供の成長に従って傘もまた作り直され、補強されていく。町の人々にとって傘は自らの分身のようなものであり、その傘を生み出す傘職人は町でもっとも尊敬される職業であった。

 少年が自分の町の習慣が変わったものであることに気づいたのは小学校二年生の時であった。母親と共に隣町のデパートまで買い物に出掛けたのだが、買い物を終えて品物をデパートから駐車場に停めてある車に運んでいる時に、空から小雨だが雨が降ってきたのだ。少年は反射的に傘を差さなければ、と思った。しかし、片手を買い物袋にふさがれていたために、素早く傘を差すことができなかった。あっという間に雨粒は降りつけてきて、少年の頬は雨に濡れた。駄目だ、もう終わりだ、と少年は焦りの表情を浮かべ、頭の中はパニック状態に陥った。左手から買い物袋を地面に放り投げると、夢中で自分の傘を開こうとした。しかし、傘の留め具に手を掛けたところで少年は気づいた。自分が雨に触れても平気だということに。周りを見回してみると、母親を除いて全ての人々が傘を差すこともなく、平気な顔をして駐車場とデパートの間を行き来していた。母親は自らの町での習慣に従い、素早く確実に傘を差していた。少年の戸惑った様子に母親が気づいた。振り向くと、どうして傘を差さないの?と少年に尋ねた。少年は、だって平気だよ、と答えた。違うの、平気じゃないの。ここは余所の町だからそうなの。私達の町では平気じゃないの。だから、傘を差さないようにしてちゃだめなの。母親は、真剣な表情で、教え諭すようにして言った。少年は母親の様子に気圧されて、ただ頷くしかなかった。急いで自分の傘を差すと、地面に投げ捨てた買い物袋を拾い直した。しかし、少年の心の中には先程の考えが残り続けていた。自分は雨に濡れても平気だった。なのに、何故母親は、いや、自分の町の大人達は、雨に濡れることを禁止するのか?余所の町では誰も雨に濡れることを厭いもしないというのに。

 母親に厳しく注意を受けてからしばらくの間は、少年は町の決まりに従順に従っていた。また、生まれた時から教え込まれた習慣というものもあって、だんだんとそれが当たり前の様に感じられていった。一度だけ、試しに雨の中に身体をさらそうとしたこともあった。しかし、自分の町ではどうしてもできなかった。身体は基より、心の無意識の領域にまで雨には濡れてはならないという習慣が身についているようで、どうしてもできないのだった。余所の町ではいくらでも雨に触れることができた。そこでは逆に雨に対して、まったく身体が拒否反応を示そうとしないのだ。何故なのか?少年はよくそのことを考えたが、町では雨に関する話題は一種の禁句であり、それについて調べることはできなかった。そのため、だんだんと少年は自分の町に対して距離のようなものを感じるようになり、休みの日などはほとんど余所の町で過ごすようになっていった。少年は少しずつ町の中で孤立していった。学校では数人の話し相手こそいれ、友達と呼べるほど親しい間柄のクラスメートは一人もいなかった。学校のクラスメート達は皆傘を持ち歩くことに何の疑問も持たず、雨が降ってくれば普通に素早く傘を差していた。自分のように少しでも町の習慣に立ち向かおうとする者は一人もいないように少年には見えた。そんな連中と仲良くするわけにはいかない、と少年は半ば意地になって考えていた。少年は自分一人ではあったが、町という巨大な存在と戦っているつもりであった。町の習慣によって、自分の意識していないところで勝手に身体を操られているような、そんな気持ちの悪い感じを雨が降ってくる度に感じていた。何とかしてこの習慣を断ち切ってやる。少年はそう強く想うようになっていった。

 時が経ち、少年は高校生となった。来年に受験を控えた彼は、それでもまだ町の習慣と戦い続けていた。年を重ねるにつれて親や教師に対しても、直接町の習慣についての疑問をぶつけるようになっていった。しかし、その度に得られる答えは曖昧で納得のいかないものばかりだった。それでも、彼はこだわり続けた。そのため、両親との仲は悪化した。そんなにこの町に住むのが嫌なら、来年の受験で余所の町の大学を受ければいい、と母親は諦め混じりに言った。父親は特に何も言わなかったが、息子の異常なこだわりに対しては辟易に近い感情を抱いているようだった。教師もまたこの特殊な教え子に対しては他の生徒と比べて距離を置いて接するようにしていて、なるべく込み入った話などはしないようにしていた。彼はクラスの中でも孤立していた。時が経過した結果、彼はより孤独に、より頑迷になっていた。

 ある日、彼は傘職人の家を訪ねた。彼の町において傘職人はもっとも尊敬されている職業であり、同時にもっとも謎に満ちた職業でもある。何故この町の住人は産まれた時に自分専用の傘を作られるのか?そして、その役目を何故傘職人が請け負っているのか?全ては傘職人に尋ねれば明らかとなることだ、と彼は考えたのだった。傘職人の家に赴くと、彼は呼び鈴を鳴らした。少しの間があって、玄関のドアがガラガラと音を立てて開いた。紺を深く染めた色をした作業衣を着た老人が現れた。何の用かね?と老人は彼に尋ねた。彼はどう言えばいいものか迷ったが、単刀直入に訊いてみた。何故この町の人達は産まれた時から傘を持たされるんですか?そして、どうしてその傘をあなたが作るんですか?老人は少しの間黙ったままで彼のことを眺めた後、必要だからだよ、と答えた。それでは答えになっていません。僕はもっと具体的な話を聞きたいんです。彼の言葉に対し、老人はしばらくの間黙って考えていた。老人の目は迷いを表すように小さくだが揺れていた。やがて、老人は口を開くと、彼を自分の家の庭へと案内した。そこにお前さんの知りたい全てがある。老人は意味有り気な口調でそう言うと、一輪の花の前で足を停めた。何という種類の花なのかは分からなかったが、白くて可憐なその花は、大して広くない庭の中でただ一輪だけポツンと咲いていた。他には一つも花は無かった。老人は黙ってその白い花を見つめていた。彼は老人に習ってその花を見つめてみた。きれいな花だと思った。しかし、何故か彼はその花が好きになれなかった。何か、妙に生々しさのようなものが感じられて、生理的な嫌悪感を抱かずにはいられなかったのだ。この花を見て、お前さんは何を感じる?老人が花を見つめたまま尋ねてきた。彼は正直な感想を述べた。すると、老人は彼の方に向き直って言った。今お前さんが感じたこと、それがこの町の秘密の全てだよ。そう言うと、老人はもう言うことは何もないといった風に家の方へと引き返して行ってしまった。彼には老人を呼び止めることはできなかった。彼は目の前にある白い花が放つ生々しさに耐え切れなくなり、庭から逃げ出してしまっていたのだった。

 

 彼が彼女に初めて出会ったのは高校の帰り道のことだった。その日は朝からの曇り空が昼頃から崩れ始め、緩やかな雨が夕方までずっと降り続けていた。彼は雨が降っている日の常で不機嫌になりながらも、しっかりと傘は差していた。あの傘職人の家を訪ねていった日からすでに二週間以上が過ぎ去っていたが、あれからもう一度訪ねていく気にはなれなかった。あの時庭で見た白い花の持つ妖しいまでの生々しさが彼の嫌悪感を膨らませて、とてももう一度あの庭に行くような気になれなかったのだ。彼は緩やかに降ってくる雨の中を気だるげに歩いていく人々の中で、ただ一人神経を尖らせていた。何も分からない。むしろ前よりも余計に雨に対する憎しみが増してきている。そのことを彼自身が自覚している。その認識が、さらに彼をいらつかせるのであった。彼は破壊衝動に駆られた。何かを、何でもいいから壊したいと思った。ちょうど川辺を歩いているところだった。彼は立ち止まると周囲に視線をめぐらした。そこで、彼は思いがけないものを見た。川辺にある一本の大木、その根元に一人の女子生徒がいる。制服から見て、彼と同じ高校の生徒だろう。その女子生徒は何のためか大木の下から動こうとせず、そして傘を差していなかった。大木は完全な屋根とはなっておらず、ぽつぽつとだが雨粒が地面へと降り注いでいる。今のところ女子生徒には雨の被害は及んでいないようだ。しかし、何故彼女はわざわざあんな大木の下で雨宿りをしているのだろうか?あそこでは、いつ雨に濡れてもおかしくないというのに。そこで、彼は気づいた。そうではないのだ。あの女子生徒は自ら進んで大木の下といった不安定な雨宿りの場所にいるのだ。少しずつでも構わないから、雨と対決するために。自然と彼の足は彼女の方へと向かって行っていた。彼の心の中には、久しく忘れていた喜びの感情が湧いてきていた。彼は、ようやく仲間と呼べる人物に出会えたのだ。彼が後五メートルといった距離まで近づいた所で、彼女が彼に気づいた。二人の視線が合った。彼女の視線に疑問を感じた彼は、口を開いた。君も、この町の習慣を、何故異常なまでに雨を恐れるかということを探っているんだろう?だから、そうやって雨に立ち向かおうとしているんだろう?彼女は頷いて見せた。あなたもなの?そうだよ、と彼は答えた。僕も探しているんだ。この町の秘密を。私はちょっと違うな、と彼女は言った。私はただ、この町の雨に触れてみたいだけなの。ただそれだけ。あなたのように町の秘密を解こうとまでは思ってない。でも、と彼は言った。雨に挑むことがその答えにつながるんだ。だから、僕達は仲間なんだ。一緒に挑もうよ、この町の秘密に。雨に触れるためにならいいけど、と彼女は答えた。それで十分だよ、と彼は嬉しそうな笑みを浮かべた。こうして、彼と彼女は出会った。

 しかし、具体的に何をどうすればいいのかは二人とも分かっておらず、何かいい案はないものかと彼らはよく話をした。ある日、話が傘職人に及んだ。彼女はまだ自分が幼かった頃、母親に連れられて傘職人の家を訪ねた時の話をした。その時、彼も見た庭にあるあの白い花を彼女は目にした。その時、彼女の中の何かが変わったのだという。その時を境にして、彼女はこの町の雨に触れたい、何としても触れてみたい、と思うようになったという。あの花を見てそう思ったの?彼は驚いて尋ねた。彼女は笑みを浮かべて頷いた。あなたはあの花を見てどう思ったの?彼女の問いに、彼は決まり悪そうに答えた。正直言って気持ち悪かったよ、もう二度と見たいとは思わなかった。へえ、と彼女は意外そうな顔をした。どうしてそう思ったのかな?まるで私と反対だけど。彼も頷いた。そう、まるで反対なんだ。どういうことなんだろう?彼は真剣に考え込んだ。その様子を見て、彼女は笑った。何か、おかしいよね。たった二人しかいない仲間なのに、その二人がまったくのちぐはぐだなんて。確かにそうだね、と同意すると、彼も笑った。

 クリスマスに行動を起こそうよ、と彼女は唐突に言った。この町のクリスマスは例年天気が悪くなるのが常で、いつもクリスマスソングに傘に雨粒が弾かれる音が混じり、人々はそれぞれの傘の下で幸せな時間を過ごしていた。彼女はクリスマスの日に雨に触れるのを決行しようと彼に相談したのだ。クリスマスか・・・・・・、と彼は考え込んだ。クリスマスは彼のもっとも嫌いな行事の一つであった。理由は先程も記した通り毎年雨が降り、その中を楽しそうに多くの人々が歩いているからであった。どう思う?彼女は彼に尋ねた。彼は正直乗り気ではなかった。彼にはクリスマスにいい思い出などはなく、何だか行動を起こす前から失敗を予告されているような嫌な気分がしたのである。反対なのかな?彼女は重ねて尋ねた。別に反対ってわけじゃないよ。けど、何となくね・・・・・・。彼は言葉を濁したが、結局は彼女の意見を尊重することにした。分かったよ、じゃあクリスマスにしよう。彼は頷いて見せた。良かった、反対されたらどうしようかと思った。彼の苦々しさを知ってか知らずか、彼女は笑ってそう言った。

 クリスマス当日は例年通り天気が悪く、午前中から雨雲が空を覆っていた。学校が終わると彼は待ち合わせをしてある喫茶店へと向かった。店に入ってコーヒーを飲みながら彼女を待っていると、天気が崩れて雨が降り始めてきた。窓の外を歩く人々が傘を開き始め、まったく例年通りのクリスマスの雰囲気となった。彼はこれから自分達がしようとしていることが悪い結果になると暗示されているように感じて、気分が悪くなった。腹立ちを紛らわすようにカップに残っていたコーヒーを一気に飲んだが、冷めた液体は返って不快感を増大させるだけであった。そのまま憮然とした表情で待っていると、やがて彼女がやって来た。ごめん、何だかクラスの女の子の誘いを断るのに手間取っちゃって、と彼女は言った。彼は憮然とした表情のままで、別に構わないよ、と答えた。彼女は彼の顔を覗き込むと、何だか怒ってない?と尋ねた。別に怒ってないよ。でも、顔がすごく不機嫌そうだよ?これは別に待たされたからじゃないよ。じゃあ、何が原因?彼は彼女の顔を見ると、すまなさそうに言った。今さらこんなこと言うのもなんなんだけどさ、俺ってクリスマス嫌いなんだ。へえ、そうなんだ。だったら言ってくれれば良かったのに。でも、と彼女は不思議そうな顔で尋ねた。どうしてクリスマスが嫌いなの?彼は窓の外に目をやると、毎年雨が降るからだよ、と答えた。彼女は頷くと、うん、それはあるよね、と自分も窓の外に目をやりながら言った。外では降り続ける雨の中を様々な色の傘を持った色々な人々が行き来していた。

 夜の九時、二人は町の中央を流れている川に掛けられた橋へと向かった。橋までの道には雨が降っているということもあってか人影はほとんど見えず、時々若いカップルのような二人組みが道を歩いているくらいだった。二人は無言で歩いていた。自分達はこれから一つの戦いを行おうとしている。二人はそんな気分であり、橋に近づいて行くに連れて彼らの心は昂揚としてきていた。橋はそれほど古くはないがそれほど新しいものでもなく、鉄筋製の無骨なシルエットを外灯の灯りの下に現していた。橋の入り口にまで来た所で彼は唐突に足を停めた。何故かは分からないが、彼の胸の内には強い不安が湧いてきていた。どうしたの?と彼女が尋ねた。彼は無理矢理不安を押さえ込むと、何でもないよ、と答えてから再び足を進め始めた。彼女はその後に従った。

橋には二人の他に人影はなく、雨音だけが響き渡るひっそりとした空間を二人は進んで行った。橋のほぼ中央まで来たところで二人はほぼ同時に足を停めた。顔を向け合って互いの顔を確認してから頷き合うと、彼らは眼下に広がる暗い川面へと目を向けた。雨の降っている中で橋の上に立って、そこから川へと二人同時に傘を投げ入れる。それが彼らの考えたクリスマスにおける挑戦だった。今や挑戦の時が間近に迫り、彼の心の中の不安はますます増殖していた。一方彼女の方は、何の不安も感じてはいなかった。ただ、何とも言いようのない戸惑いはあった。それが何を意味する物なのか、直前になったその時にもまだ、彼女には分かっていなかった。

 3、2、1、ていう合図でいいよね?彼女が尋ねた。彼は胸の内の不安に注意が向いていたので、不安気な表情で頷いた。じゃあいくよ、と彼女が言った。彼は不安であったが、さすがに意識を集中させなければと目の前の川面を凝視した。3、と彼女が言った。二人の心臓が同時に高鳴った。2、という声と共に二人は傘を投げ捨てる構えを取った。1、という言葉を彼女が発した。彼の中の不安は限界まで膨れ上がり、彼女の中の戸惑いは明確な形をとった。0、という声がひっそりとした空間に静かに響き渡った。その瞬間、傘が宙に飛んだ。しかし、それは赤い色をした傘一本だけであった。傘は闇夜をくるくると回りながら赤い軌跡を描いて川面に落ちると、そのまま流れ去っていった。

 彼は、0という彼女の声が聞こえると同時にすでに後悔していた。彼は自分の傘を投げることができなかったのだ。限界まで膨れ上がった不安が、いや、それよりも長年彼を捕らえて離さなかったこの町の持つ習慣という名の力が、彼に傘を離すことをどうしても許さなかったのだった。彼は後悔すると同時に赤い傘が宙を舞うのを見た。彼は反射的に彼女の方を見ていた。彼女は顔を空に向けて両目を閉じていた。そして、雨にその身を打たれていた。彼女は、傘を投げる直前に自分の中にあった戸惑いの正体を正確に掴んでいた。あれは、解放を目前にした喜びの感情だったのだ。彼女は今日この日この瞬間に自分が雨に触れているであろうことを少しも疑ってはいなかった。彼女には、ただ自分自身で気づいていないだけで、すでに確信があったのだ。それを今、彼女は悟っていた。同時に、膨れ上がっていた解放感を爆発させてもいた。この町の雨は彼女が想像していたものよりもずっと気持ち良く、優しい滴達であった。彼女は生まれてこの方、これほど優しく気持ちの良いものに包まれたことは一度もなかった。彼女は純粋に喜びに浸っていた。と、彼の呼ぶ声が聞こえた。彼女は目を開けると彼の方を見た。彼は未だに傘を持ったまま、この自分が味わっている喜びに浸れないままでいた。その姿は、とても惨めに見えた。なのに、彼女は微笑んで見せた。何故微笑んだのかは彼女にも分からなかった。雨が彼女の顔に勝手に触れたためかもしれなかった。とにかく、彼女の浮かべた微笑はこの世のものとは思えないほど美しいものであった。しかし、それは同時にぞっとするほど生々しくもあった。彼の恐怖はこの時絶頂に達した。彼は恐怖の悲鳴を上げていた。すると、それが引き金となったかのようにして彼女の身体に変化が生じはじめた。まるで、雨に溶かされるようにして彼女の身体が透明になっていき、少しずつその形が崩れていったのだ。雪が斜面を滑り落ちていくように彼女の身体は上から下の方へと流れていき、ついには一塊の透明な物体になってしまった。彼は彼女の身体に変化が起こっていた間、ずっと呆然としたままであった。それ以外にどのような反応が彼に取れたというのだろうか?彼が我に返った時には、すでにどれほどの時間が経過していたのだろうか?気がつくと、目の前にあった彼女であったはずの透明な塊はすでに姿を消していた。変わりに、一輪の赤い花が咲いていた。彼はその花を見ると、すぐに傘職人の家で見た白い花を思い出した。目の前にある赤い花には、あの白い花に通じる美しさと奇妙な生々しさがあったのだ。その瞬間、彼の脳裏に傘職人の老人の言葉が蘇ってきた。この花に、この町の秘密の全てがある。そしてその瞬間、彼は老人の言葉の意味を理解した。

 クリスマスの夜、ひっそりと静まり返った鉄筋製の橋の上では、ただ降り続ける雨の音だけが響き渡っていた。時々そこに紛れ込むようにして聞こえてくる男の泣き声のようなものは、雨粒の反響音が生み出した幻聴に過ぎなかったのであろうか。

 

 傘職人の家に一組の夫婦が訪ねてきた。女性のお腹は大きく膨らんでおり、妊娠していることが外目からもすぐに分かった。傘職人はまだ三十代半ば位の若い男であった。夫婦はどちらもまだ二十代前半位に見える若夫婦であり、自分達の子供用の傘を注文する彼らの表情には大きな希望があった。注文を終えて若夫婦が帰って行くと、傘職人は家の庭へと向かった。庭は特に手入れをされていないのか大分荒れていたが、一箇所だけ丁寧に清められている場所があった。そこには、一輪の赤い花が咲いていた。大変美しく、しかし嫌悪感を感じさせる程生々しいこの花に向かって、傘職人は心の中で問いかけていた。また新しく傘を持つ人間がこの町に増える。それは、どうしようもないほどみじめで、救いようもないほど悲しいことが続いているということなんだろうか?傘職人は十五年前のあの日、彼女を失くした彼であった。彼はあの全てを理解したクリマスの夜が終わると、その次の日にかつて彼女だった赤い花を持って傘職人の家を訪ねた。彼が手にしている一輪の赤い花を見ると傘職人は何が起こったのかを悟った。そして、その日から彼は傘職人になるための修行を始めたのだった。やがて、先代の傘職人が亡くなった。不思議なことにその日庭を覗いてみると、あの白い花が姿を消しており、彼が植えた赤い花だけが残っていた。その日から、彼はこの町の傘職人となった。彼は傘の注文を頼まれると必ず庭に行って一度赤い花を見ることにしていた。それは先代の傘職人も必ず行っていた一種の儀式であった。しかし、彼は赤い花の前に立つ度に絶望に近い感情に襲われるのだった。あのクリスマスの日、彼女は雨に触れることによって、この町に掛けられていた呪縛から解き放たれ、自由になったのだ。目の前にある赤い花は、その自由の象徴であった。一方、彼が繰り返し作り続けている傘は、この町の呪縛の象徴であった。彼は傘を一つ作る度に自分の手に掛けられた枷がより大きく、重くなるのを感じていた。彼は結局、この町から自由になることはできなかった。そして、それはこれから先もずっと変わらない事実なのであろう。

 町に雨が降る。それは彼女にとっての自由の象徴であり、彼にとっての束縛の象徴である。彼は自分が作った傘が雨を弾いているのを見る度に絶望に襲われ、ひたすら降り続ける雨を憎み続けた。しかし、それらは皆、無駄なことでしかないのであった。

(了)


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